テクストは単一か

同僚から教えてもらった興味深い現象。
「かんなぎ」ナギが原作漫画で非処女と判明して大騒ぎ

(私の目から見ても)滑稽に見える議論(?)です。
「2次元の話でしょ?どうにでもなるじゃない。」
「同人誌等の媒体では、『あられもない』ヒロインの氾濫を認めてる(喜んでる!)じゃない。」
「そもそも断片的な情報を以って『非処女だ』って言えるの?」など突っ込みどころは満載です。

でも、この馬鹿馬鹿しい論争の中には全てのテクストが抱える普遍的な問いが内包されており、
私が普段触れている法律だって小説とて、その意味では同じレベルの問いが可能です。

例えば「現実」は変えられないけれど、2次元なら変えられるというのは1つの信仰。
私が今実感している「現実」が実在するかという問いもあるし、より卑近なレベルでは
「現実」に対する「私」の認識次第で、私にとっての「現実」は変わりうるともいえる。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の古歌では、幽霊から枯れ尾花へと「現実」が変わっている。

オリジナルのテクストと複製、再生産されたテクストの価値に差はあるのか。
ロラン・バルトの議論では、零度の「テクスト」はなく、テクストは書き手、読み手、
環境全てによって姿を変える。したがって、1つとして同じテクストは存在しない。
ゆえに逆説的ではあるが、オリジナルと複製との間に「差」はあっても、
それは「決定的」ではありえないことになる。すなわち、オリジナル崇拝は不自然である。

しかし、その「不自然」は駆逐されるべきものか。
オリジナル(原作)も二次創作も所詮は同じであり、原作だけを特別視するのは不合理と言えるか。

例えば、議会の制定手続を経たテクストだけを法律とすることで、
法学は、「オリジナル」と「解釈」という不自然を許容し、その理由について合理的判断を停止した。
(法律の「オリジナル性(正当性)」は、目下現代憲法学の最先端の議論のテーマである。)

この「オリジナル」性は、武梨氏の描く「かんなぎ」にも認めることができる。すなわち、
「かんなぎ」と同人誌との間に「越えられない壁」を認め、かつその根拠について判断を停止すれば、(難しいことではない。要は、原作は特別なんだと割り切るだけである。)
原作は聖典という意見があったとしても、それは最早不自然ではなくなるとも考えられる。
(ちなみに「オリジナル」の選定は自明ではなく、これ自体として興味深い論点となりうる。)

解釈の単一性については、バルトの紹介の時点で1つの答えを示している。
テクストの解釈は、人、時、場所等に依存するために「正しい解釈」はありえない。
ゆえに、「処女」説「非処女」説いずれの「解釈」も正しいしまた間違ってもいる。
『非処女』だという解釈を許すか否かは、究極的には各人の信仰の問題である。
ゆえに、論争が起こるとすればそれは信仰同士が衝突する神々の(正しき者のない)争いとなる。

なーんて。

しょうもないことする前に、課題を片付けないと(TT)

参考
零度のエクリチュール 新版零度のエクリチュール 新版
(2008/04/18)
ロラン・バルト

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